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本能寺の変の黒幕 秀吉か家康か軍師官兵衛か

NHK大河ドラマで「軍師官兵衛」が放映されていることもあり、
本能寺の変(1582年6月2日)が話題になっています。
東京都の江戸東京博物館でも「軍師官兵衛特別展」が始まっています。
当時日本の統一へあと一歩のところまで駒を進めた織田信長ですが、
なぜ本能寺で家来の明智光秀に狙われたのでしょうか?

画像 1459.jpg

①怨恨説(まずまず有力)
非常に気が荒い織田信長にいじめに近い形で叱責されてプライドが傷ついたから、
あるいは領地の変更を指示されたことからくる恨みという説です。

ただ、信長の光秀いじめの根拠は実は物語調の軍記物(『明智軍記』など)にすぎません。
例えて言えば後世の人がNHKの大河ドラマを資料にするようなものです。
信長の側近によると、明智光秀との関係は極めて良好だったと考えられます(『信長公記』)。
するとこの説には疑問が残ります。

②四国政策説(有力)
信長は四国(土佐の長宗我部氏=ちょうそかべし)と友好関係を結んでいましたが、
ある時期を境に対決へと向かいます。
もともとこの友好関係の窓口だったのが明智光秀でした。

主君とはいえ年下の信長に面目をつぶされたのは分かりますが、
これだけで討伐を決意したというのにはやや疑問もあります。
万一謀反(=むほん。主君に逆らうこと)に失敗したら一族が刑を受け途絶えてしまいます。
面目と一族の将来を天秤にかければ、
比較的冷静沈着だとされる光秀がこれだけで謀反に出たというのは不自然です。

③明智光秀の天下統一への野望説(まずまず有力)

画像 1453.jpg

この説でよく引き合いに出されるのは光秀が連歌(=交替で少しずつ和歌を作っていくゲーム)の際に、
「ときは今あめが下知る五月哉」とスタートし、これに天下取りの野望を含ませているという話です。
問題なのは「知る」という古語で、今とは異なり「統治する・支配する」という意味を持ちます。

しかし、実際には
「ときは今あめが下なる五月哉」
と詠まれたという説があります。
光秀の他愛のない句を、後々秀吉が光秀を悪者にするために書き換えた可能性があります。
光秀は本能寺の変のあと討たれて亡くなっていますので死人に口無しです。
そうなると権力者の言説が支配的になるのは分かり切ったことかもしれません。

これらの3説がいまのところ一応は有力ですが、
このうち2つまたはすべてが複合している可能性もあります。
ただし3説とも誤っている可能性も十分にあります。

④その他の説
なお、以下は今のところ証拠(となる史料)に乏しく、微妙または疑わしい説で、それほど支持されているわけではありません。
朝廷黒幕説(やや微妙)
悲観説(微妙)
足利義昭説(微妙)
羽柴秀吉説(疑わしい)
徳川家康説(疑わしい)

なお、遺体が見つからなかったという説があります。
これはあくまでも歴史小説『信長の棺』が演出したエピソードという意見もあります。
また、本能寺は烈火で完全に焼け落ちたため、遺伝子の分析などの技術が無ければ遺体は見つからなくて当然だという意見もあります。
江戸東京博物館(東京都・両国)の「軍師官兵衛特別展」の『秀吉を天下人に』エリアに次のものがありますので、それを見れば本能寺の様子は推し量ることができます。
展示番号78 本能寺出土遺物 焼け瓦 安土桃山時代 1式 京都市考古資料館
展示番号79 本能寺出土遺物 焼け土 安土桃山時代 1式 京都市考古資料館

本能寺焼けた瓦.jpg

しかしながら、ここでは焼け瓦しか展示されていないのですが、実は焼けていない瓦も発掘されています(2007年発掘調査)。焼けていない瓦を展示しても仕方が無いため、倉庫にでもしまわれているのでしょう。
このように見てくると烈火で遺体が燃えてしまったというのは十分な説明にはなっておらず謎は残ります。

真相はまだ分かりません!
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